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我、天体の運行を計算し得れども——アイザック・ニュートン、南海の手記

作成日:2026年07月08日

一七二〇年一月某日

今朝、テムズは凍てつき、造幣局の窓から見る塔の鴉どもは羽を膨らませて動かぬ。余は本日も金貨の純度検定に立ち会った。金とは正直なものである。坩堝に投じれば嘘をつかず、天秤に載せれば偽らぬ。余が二十年余りこの職にあって学んだのは、貨幣の価値とは畢竟、人の信の写し絵であるということだ。

議会では南海会社の大計画が囁かれている。国家の債務——先の戦役で膨れ上がった、あの年金債務の山を——会社の株式に転換するという。余はこの会社の株を保有して久しい。額面百ポンドの株に、市場では百二十八ポンドほどの値が付いているそうだ。悪くない。国債より利回りは良く、会社は政府の後ろ盾を得ている。

余は投機家ではない。神の造り給うた宇宙の法則を、生涯をかけて写し取ってきた者である。されど余とて、余の家の者たちの行く末を考えねばならぬ身。堅実な資産は、堅実に持つべきである。

二月某日

議会は南海案とイングランド銀行案を秤にかけている。南海会社は入札を吊り上げ、七百五十万ポンドもの上納金を国庫に約した由。株はじりじりと上がる。

コーンヒルとロンバード街に挟まれた、あの猫の額ほどのエクスチェンジ・アレーの人だかりは日ごとに増す。ジョナサンの珈琲店でもギャラウェイの店でも、皆この話しかせぬ。仲買人どもは卓の上で値を叫び、給仕は盆を掲げたまま人垣を掻き分けられずにいる。株式の売買に取引所は要らぬ。珈琲一杯と、噂と、欲があれば足りるのだ。

余は思う——会社の収益の源泉は何か。スペイン領との交易権(アシエント)は聞こえこそ良いが、ユトレヒトの条約以来、奴隷と織物を運ぶあの交易が大利を生んだ試しはない。この会社の実体は貿易会社にあらず、国債を株式に着替えさせる金融の装置である。

ならば株の価値は、装置の仕組みから計算できるはずだ。余は計算する者である。

三月下旬

株は三百ポンドに達した。年初の二倍を超えた。

余の持ち分の含み益は、もはや無視できぬ大きさになっている。フラムスティードの観測記録を幾年も待った余が、なぜかくも短い月日の値動きに心を騒がせるのか。夜、プリンキピアの改訂草稿に向かっても、頭の隅で数字が明滅する。百二十八が三百に。この比率、この速度。

彗星は太陽に近づくほど加速する。されど彗星には軌道がある。近日点を過ぎれば、必ず遠ざかる。この株の軌道は、いずこに近日点を持つのか。

四月二十日頃

売った。

四月の半ば、会社は第一回の新株引受(マネー・サブスクリプション)を一株三百ポンドで募り、瞬く間に埋まったという。市場の熱は本物である。されど余は計算した。会社が国債保有者を取り込むには高い株価が要る。高い株価は更なる期待を要する。期待は更なる高値を要する。これは自らの尾を食う蛇だ。

余は持ち株の大半を、三百五十ポンド前後で手放した。元手はおよそ倍になった。造幣局長官の俸給の何年分にも当たる利である。

議員ハチスン氏が明日、株主総会の日に合わせて批判の小冊子を出すと聞く。氏は計算した由——現在の株価を正当化するには、会社がいかに非現実的な利益を上げ続けねばならぬかを。余の結論と同じである。数字は正直だ。金と同じく。

これで終いである。余は市場から降りた。勝って降りたのだ。

五月某日

……株は四百を超え、五百に迫っている。

第二回の引受は一株四百ポンド、しかも頭金はわずか四十ポンドで済むという。四十ポンド払えば四百ポンドの株の値上がりを丸ごと享受できる。梃子(てこ)である。アルキメデスは地球を動かす支点を求めたが、エクスチェンジ・アレーの連中は四十ポンドで富を動かす支点を見つけたつもりでいる。

余の売った株を買った者は、既に余より賢かったことになる。

街の様子が変わった。引受の名簿には公爵夫人らが列をなし、貴婦人が輿を乗り付けて仲買人の店先に並ぶ。昨日まで人の馬車の後ろに立っていた従僕が、今日は己の馬車を注文する。南海だけではない。保険だ、漁業だ、と称する泡沫のごとき事業案が日ごとに旗を揚げ、どれも引受の朝には埋まるという。御者や仕立屋までが株を語り、余の半分も数字を解さぬ者どもが、余の倍の利を得ている。

余は正しかった。正しかったはずだ。ならばなぜ、余の胸はこうも波立つのか。

計算は済んでいる。答は出ている。されど夕餉の席で誰それが幾ら儲けたと聞くたび、答の紙面に染みが広がる。

六月十四日

買い戻した。

本日、およそ七百ポンドで、余は南海株を再び購った。春に利確した金子を、そっくり市場に戻したのである。

言い訳を書き付けておく。余とて考えたのだ。もはやこれは一会社の株価にあらず、王国の信用そのものの再編である。国王陛下御自ら会社の総裁に名を連ね、大臣も議会も後ろ盾に立つ。パリではローの体制(ミシシッピ会社)が傾き、大陸の資金が海峡を渡ってロンドンに流れ込んでいるとも聞く。潮は満ちている。満ち潮に逆らって錨を降ろす船があろうか。

……いや、正直に書こう。余は耐えられなかったのだ。降りた祭りが、余を置いていっそう華やぐのを見続けることに。三百五十で売った者にとって、七百で買い戻すとは、己の計算の敗北を認めることに他ならぬ。認めた上で、余は買った。

買い注文を出した瞬間、数箇月ぶりに息が深く吸えた。恐ろしいことに——安堵したのだ。

二日後、会社は第三回の引受を募った。一株、実に千ポンド。頭金は百ポンドで足りる。市場の実勢は七百三十前後というのに、千ポンドの引受にすら人が殺到した。

六月下旬

六月二十二日をもって、会社は株式の移転簿を閉じた。八月下旬まで名義の書き換えができぬ。ゆえにいま口々に唱えられる「千ポンド」なる値は、開簿後の受け渡しを約する先渡しの値である。現物なき値、約束の上に約束を重ねた値だ。

余はそれを知りつつ、含み益に頬を緩めている。七百で買った株が、帳面の上では千に届こうという。

夜半、ふと思う。余は錬金術の実験に幾星霜を費やした。卑金属を金に変えんとする試みは、ついに成らなかった。しかるにブラント(この計画を仕組んだ理事)とその一党は、紙とインクと人の欲だけで、それを成し遂げたかに見える。羊皮紙の上の署名が黄金に変わる。これぞ真の賢者の石か——それとも。

八月二十四日

会社は第四回の引受を募った。またも一株千ポンド。市場の実勢は八百二十ほどに沈んでいるにもかかわらず、である。市価を上回る値で新株を売りつける——この不遜。しかも人はまだ買うのだ。余も、姪の縁者の勧めもあり、引受に名を連ねた。いま思えば、これが駄目押しであった。

不穏の報が続く。六月に成った泡沫会社禁止法(バブル・アクト)を、会社は八月に入って競合の泡沫会社どもへの訴追に用い始めた。他社の株が崩れれば、信用で買い支えていた者どもは、手持ちの南海株を売って穴を埋めるほかない。会社は競争者を刺したつもりで、己の腹を刺したのだ。

作用あれば、反作用あり。余がそれを法則として書いたのは三十余年前である。

九月十二日

崩れている。

八百。七百四十。六百三十。値が、階段を、落ちてゆく。

八月の末に八百を割り、九月の頭には七百四十前後で投げる者が出た。本日は六百三十で売れたとの由。ホーア銀行のような目端の利く連中は、夏の高値でとうに逃げていたと聞く。彼らは泡と知りつつ泡に乗り、弾ける前に降りたのだ。余は——泡と計算しながら一度降り、弾ける寸前に飛び乗った。

書きながら、手が冷たい。売るべきか。いや、ここで売れば損が確定する。持てば戻るやもしれぬ。戻る、はずだ。国王陛下が総裁の会社ではないか。

天体は微分方程式に従う。市場は従わぬ。

九月二十四日

ソード・ブレード銀行が支払いを止めた。会社の金庫番たるあの銀行が、である。

取り付けは他行に飛び火した。エクスチェンジ・アレーは、春には祭りであった同じ場所が、いまは難破船の甲板である。輿を乗り付けた貴婦人はもういない。株は三百を割り、二百を割る取引すらあると聞く。半年前、余が「高すぎる」と見て売った値を、遥かに下回ってゆく。

第三回、第四回の引受に頭金を入れた者どもは、残りの払い込みを抱えたまま、値打ちの失せた紙片を握っている。梃子は、支点の向こう側でも同じ倍率で働く。四十ポンドで富を動かした者は、四十ポンドで破滅も動かしたのだ。

マルセイユより、疫病の報。かの港では日に数百が斃れ、議会は検疫の法を論じ始めた。街の空気が、金の話から死の話に変わってゆく。

十月二十七日

市場の値、およそ二百十二ポンド。

余は勘定を締めた。春の売却の利。夏に投じた元本。引受の払い込み。差し引き、失った額——およそ二万ポンド

俸給の十年分を超える。書き写して、それだけである。

いや、間違えたのは計算ではない。計算を捨てたことだ。四月の余は正しかった。六月の余が、四月の余を裏切った。敵は市場にあらず、ブラントにあらず、余自身の裡にいた。

十二月某日

株は百六十ポンドあたりで年を越そうとしている。年初とさして変わらぬ。まるで何事もなかったかのような数字である。されどこの一年、幾多の家が潰え、幾人かは自ら命を絶ち、注文されたばかりの馬車が売りに出され、議会は詐欺の追及に沸いている。理事どもの財産没収を叫ぶ声が、庶民院に満ちていると聞く。数字は元に戻る。人は戻らぬ。

先日、晩餐の席で南海の話が出た。余は席を立ちたい衝動を抑え、ただこう答えた——

「余は天体の運行ならば計算できる。されど、人々の狂気は計算できぬ」

一同は笑ったが、余は笑えなかった。あれは警句ではない。敗残の弁である。余は人々の狂気を計算できなかったのではない。四月には、確かに計算できていたのだ。余が計算できなかったのは、群衆の狂気に炙られたときの、余自身の狂気である。

万有引力は、林檎にも月にも、等しく働く。距離の二乗に反比例し、質量の積に比例して。そして欲望もまた、引力に似る。近づくほどに強く働き、大質量——大きく膨らんだ泡ほど——強く引く。余は七十七年を生きて、なおその引力から自由ではなかった。

この手記を読む者があれば、伝えたい。学識は貴方を守らぬ。一度目の正しい判断すら、貴方を守らぬ。市場で最も危険な瞬間とは、貴方が一度勝って降りた後、隣人が勝ち続けるのを眺めている、まさにその時である。

余は自然の書物を数学の言葉で読んできた。されど人の欲の書物は、いまだ誰も読み解いた者がない。

——アイザック・ニュートン